あれは確か今から30余年前、まだ僕が中学生だった頃のことだ。たしか国語の教師から聞いた言葉だったように記憶している。
「作品は世に出て人々の目に触れた時から、作家の手を離れ独り歩きする。」というようなことを言っていた。そして、「独り歩きを始めた作品は、もはや作家の所有物や従属物ではない。」というようなことも言っていた。おそらく過去の偉人か先達の言葉だろう。もしくは国語の教材の一節かもしれない。誰が言ったかということについては興味がないので憶えていない。
作家がどのような意図を文章に込めようとも、それを読んだ読み手によって様々な受け止め方をされ、論評され議論され、時を経るにつれ作家の意図とは違う意味が付与されていく。僕は、この言葉の趣旨をこんな風に理解している。
あの匿名ダイアリーが有名になった結果「日本死ね!!!」という言葉はかなり多くの意味を持つようになったようだ。
ネット上のテキストとしてかなり上手な文章
元記事の保育園落ちた日本死ね!!!は、ネット上のテキストとしてかなり上手い。惚れ惚れとするほど歯切れよく勢いがある。
タイトルの「保育園落ちた」と、二行目の「一億総活躍社会じゃねーのかよ。」のたったこれだけのことばで、かなりストレートに趣旨が伝わる。
そして3行目の「保育園落ちたわ」を受けての4行目の切り返し「どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。」が最高に上手い。この一行がもしこの場所になかったら、この文章はただの愚痴で終わりだった。
この4行目を、泣いた口調なのか、半ば諦めがちに吐き捨てるように言うのか、自嘲気味に作り笑いで言うのか、怒りを込めた強い口調でいうのか、どんな言い方だと感じるかによって、かなり意味が変わる。
タイトルも秀逸だ。
「保育園落ちた」「日本」「死ね」の三節は本来この順番で同じ場所に置かれる言葉ではない。それぞれ種類が違う。この置き方に心地よい違和感があるのだ。
かなり具体的な「保育園落ちた」という言葉の後に来る「日本」という抽象的な言葉が、国家、政府、国会、与野党、議員、自治体、役所、社会構造などさまざまな意味合いに受け取れ、読み手にとっていそれぞれに都合の良い共感を生む。
そこに強烈な「死ね!!!」という決め言葉だ。この言葉、「ふざけんな!」程度の意味で受け取る人からかなり深刻に字面通りに受け止める人まで解釈の幅が広い。
僕は勝手に30歳ぐらいの子供を持つ女性が書いた文章だと思っている。その世代の女性が使う「死ね!!!」という言葉には、いったいどのような意味が込められているのかと想像を巡らすのだ。
いまの環境が羨ましい
僕らが社会に出たばかりの頃は、社会や会社といった何やらとてつもなく大きなものに対して物を言ったり自分の言葉を届けることが今よりもかなり難しかった。
社会現象は原則としてテレビや新聞などによって惹起され踊らされるもので、街の片隅でアリンコがどれだけ叫んだところで大きな動きを起こすことはなかなかに困難であった。
世の中や組織に対して何らかの影響を与えられるような存在になるためには、若くして特別な才能が必要だったり年齢を重ね経験を積む必要があった。
経済が右肩上がりの当時においては長いものに巻かれていたほうが賢いという逃げもあった。社会に対する不満を述べるよりも、どれだけ稼ぐか、どれだけ享楽的に生きるか、個人の満足がもっとも大切にされた時代でもある。
そんな時代を過ごしてきた自分にとって、今がちょうど選挙前だというタイミングを割り引いたとしても、こういった個人の声が国会で取り上げられたりマスコミで取り上げられ一種の社会現象となることについてかなりの羨ましさを感じる。
一方でこういった社会現象に乗じる奸佞やら、そういった現象を自分の主義主張に塗り替えようとする姦物やらも多く登場している。中には、この「日本死ね!!!」の書き込み自体がプロによって仕組まれたものだと言う者もいる。
この書き込みが話題になってから既にかなりの時間が経過し、雑音ばかりが増え、何が本当のことなのかわかりづらくなってきている。
でも、少なくとも僕はこの文章を読んで強く共感をしたし、内容についてもいちいちごもっともな事だと感じたのだ。
そして、たった20行足らずの書き込みが社会現象を巻き起こしたことに、目を細めたくなるような眩しさに似た何かを同時に感じたのだ。